詩誌「詩人散歩《(平成28年夏号)

yuyake
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  五欲                          大場 惑


 仏教に五欲という概念がある。
 五欲には二種類あって、一つは五官の欲望である。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚で味わう快感を得て満足したいという欲望である。
 もう一つは、財欲・色欲・飲食欲・名欲・睡眠欲である。色欲とは性欲のこと、名欲とは名誉欲のことである。
 現代でも、食欲・性欲・睡眠欲は人間の三大欲求とされている。飲食欲・色欲・睡眠欲がこれに当たる。
 これに集団欲を加えて四大欲望ということもある。名欲は、集団の中で名誉を得たいということであろうから、集団欲に当たるであろう。
 これらの欲求を持ち、満たすことは、悪でもなければ善でもない。人間として生きるための基礎だからである。人生の崇高な目的も、これらの欲求を満たしながら、追及するのである。釈尊も、これらの欲求を満たしながら教えを説いた。
 しかし、これらの欲求を満たすことを人生の目的にすると奇妙なことになる。食欲・性欲・睡眠欲・集団欲は、人間だけでなく、哺乳類、鳥類、たぶん魚類も、持ち合わせている。そして、これらの欲求を満たすことを目的に生きているように見える。人間も、これらの欲求を満たすことだけに生きているとしたら、哺乳類・鳥類・魚類と同等の生き方をしていることになる。
 財力は、これらの欲求を満たすための手段に位置づけられる。金さえあれば何でもできるなどと豪語する人もいる。しかし、財を求めることを人生の目的にしてしまったら、手段を求めて生きるだけで、そこから先が見当たらないこととなる。
 これらの欲求が膨張すると渇愛になる。渇愛とはとどまることを知らない自分欲である。
 一つ手に入れると、二つ欲しくなる。二つ手に入れると、四つ欲しくなる。四つ手に入れると、八つ欲しくなる。八つ手に入れると、十六欲しくなる。ここまでくると多すぎて手に入らない。すると嘆いたり、怒ったりする。そして、言う。自分の欲しいものは一つも手に入らない、などと。
 恋人から一つ求められたので、満たしてあげたら、ありがとうもなしに二つ求められた。二つ満たしてあげたら、今度は四つ求められた。そんなことがあったら、早々に離れたほうがよい。この恋人は、自分欲で固まっている恐れがある。
 自分がそんなことをしていたら、一刻も早くやめることを、強くお薦めしたい。その先には、苦悩ばかりが約束されているからである。