詩誌「詩人散歩」(平成29年春号)

yuyake
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  自燈明・法燈明                       大場 惑


 老齢となった釈迦牟尼世尊が、毘舎離国の竹林村で雨安居に入った際、重い病に見舞われた。ようやく回復したとき、阿難が、病床の釈迦牟尼世尊を前に不安になったことを訴えると、釈迦牟尼世尊は自燈明・法燈明の教えを説いてたしなめたという。(増谷文雄編訳『阿含経典第六巻』筑摩書房、p.72〜77)
 このエピソードから、自燈明・法燈明の教えは、釈迦牟尼世尊が阿難に向かって残した遺言とされている。それほど印象深い場面なのである。

 経文を渉猟すると、舎衛城の祇園精舎、ヴァッジ国のウッカチューラー村でも、修行者たちに向かって、自燈明・法燈明の教えを説いている。(増谷文雄編訳『阿含経典第三巻』筑摩書房、p.197,p.200)

 私は、次のエピソードに興味を持っている。
 成道して間もない釈迦牟尼世尊の胸に、一つの思いが湧いてきた。
「尊敬するところもなく、恭敬するものもない生き方は苦しい。わたしは、いかなる沙門もしくは婆羅門を尊び敬い、近づきて住すればよいであろうか」(増谷文雄編訳『阿含経典第四巻』筑摩書房、p.158)
 ブッダとなった釈迦牟尼世尊が、師を求めたというのである。自分は一人の修行者であるという謙虚さから、湧き出してきた思いであろう。

 釈迦牟尼世尊は世の中を見まわした。そこには、数多くの修行者や宗教家がいたけれど、戒に関しても、定に関しても、慧に関しても、解脱に関しても、解脱知見に関しても、釈迦牟尼世尊よりすぐれている人を見出すことができなかった。
 釈迦牟尼世尊は一つの結論に到達した。
「とすると、わたしは、むしろ、私が悟った法、この法をこそ、敬い尊び、近づきて住するがよいであろう」(増谷文雄編訳『阿含経典第四巻』筑摩書房、p.159)

 このエピソードについて、中村 元博士は次のように述べている。
「釈尊は一つの確信に到達した。それは〈法〉が最高の権威であるということである」(中村 元選集第11巻『ゴータマ・ブッダー釈尊の生涯ー原始仏教1』春秋社、p.193)
 自燈明・法燈明は、ここから始まったのだと、私は考えている。

 自燈明・法燈明の教えは次のように説かれている。
「『またとない大導師である世尊がなくなられたら、いったいわれわれはだれを頼りにして修行し、生きていけばいいのだろうか』−−−という阿難の不安にたいして、釈尊はこうお教えになったのです。
『阿難よ。あなた方は、ただ自らを燈明とし、自らをよりどころとするのです。他人をよりどころにしてはいけません。また、法を燈明とし、法をよりどころとするのです。他をよりどころとしてはなりません』」(庭野日敬著『新釈法華三部経』佼成出版社、p.338〜339)

   自燈明とは、主体性を持つということであろう。人から強制されたり、誘惑に乗ったりすることなく、主体的に判断し、行動することであろう。
 主体的に判断するには判断基準が必要である。また主体的に行動するには行動規範が必要である。
 この判断基準、行動規範を法(普遍的な真理)に求めることが、法燈明であろう。

 毀誉褒貶に惑わされず、権力に屈することなく、権威に寄りかからず、ただ普遍的な真理を基準として主体的に判断し、普遍的な真理を拠り所として主体的に行動する。それが、自燈明・法燈明であろうと思う。
 それは決して楽な道ではないが、真の人間として生きようとすれば、この姿勢が必要なのである。

 釈迦牟尼世尊の説法は、八万四千と言われる。それほど多くの説法をしたということと共に、それほど多様な説法をしたということでもあろう。
 私は、八万四千の説法の中の、ほんの一部に触れたにすぎないから、断定的なことは言えないが、学んだ限りの釈迦牟尼世尊の教えには、必ず自燈明・法燈明の内容が含まれているという印象がある。

 自燈明・法燈明の精神は、釈迦牟尼世尊による初転法輪から、最後の仏弟子となった遊行者スバッダに対する説法までを貫いているのであろうと、私は推測している。