仏教に「戒律」という言葉がありますが、これは「戒」と「律」をまとめて言った言葉です。
「戒」も「律」も、悪い行ないをしないという点では同じです。しかし、やはり異なるところがあります。
在家の生活を捨てて釈迦牟尼世尊の弟子となり、自らの執着心・煩悩を除去する修行に励む人々の集まりが、出家の集団です。
出家とはいえ、人の集まりですから、集団生活を送るためにはそれなりの規律が必要となります。
釈迦牟尼世尊は、出家の弟子が悪行をなしたとき、その行為を禁止し、罰則を定めました。それを集成したものが「律」です。
「律」は、集団生活をする修行者に、外側からたがをはめる他律的な規定と言っていいでしょう。
これに対して「戒」は、まったく異なるものでした。
増谷文雄編訳『阿含経典』(筑摩書房)のなかに、「聖者の愛樂(あいぎょう)する戒」という言葉があります。
「聖者」とは、お釈迦さまから教えを受けて「自燈明・法燈明」の精神で修行する人びとです。
「愛」とは、仏教では執着を意味する言葉ですが、ここでは良い意味で使われていますから「心を込めて」とか「熱心に」という意味だと思います。
「楽」とは、妙法蓮華経安楽行品を学んだとき、「自ら願って実践する」という意味だと教わりました。人から言われて実践するのではなく、自分から願って実践することを言うのだと思います。自発的・自律的な実践です。
聖者は「戒」を、自発的・自律的に実践するのです。これを樂と言ったわけです。
釈迦牟尼世尊の弟子となった修行者は、四諦の教えを学びます。
苦諦・集諦によって、自分を損なってきた執着心・煩悩を自覚することができます。
滅諦・道諦によって、これらの執着心・煩悩を滅するために取り組むべき具体的な実践方法が明らかになります。
修行者は「明らかになった道を実践し、自分を損なってきた執着心・煩悩を滅しよう」と決意し、釈迦牟尼世尊にお誓いします。これが「戒」です。
修行者はここから具体的な戒の実践に入ります。
自分の持つ執着心・煩悩との闘いは、生易しいものではありません。それでも、「戒」を実践していけば、必ず執着心・煩悩が滅して、阿羅漢の境地に達することができます。このことを確信した修行者が「戒を愛樂する」のです。
私の場合、愛樂といえるほどの高い境地には届きませんでしたがこれに似通った経験をしたことがあります。
父母の影響を受けて仏教を学んだ私は、自分には心の悪癖や行ないの悪癖があることを自覚しました。それも一つや二つではありませんでした。
これらの悪癖は私にこびりついていて、気が付いたときにはやってしまった後だったということを繰り返しました。これらの悪癖を直すのは、実に困難であり、不可能にさえ思えました。
このとき先輩が、一つでいいからしっかり取り組みなさいと教えてくれました。
そこで、悪癖の一つに焦点を絞り、これを行なわないようにと努めました。半年、一年、二年と努力を続けるうち、三年もたったころ、その悪癖がほとんど現れなくなりました。
こんなことを数回繰り返すことによって、いくつかの悪癖を克服することができました。
そうか、これが「戒」ということだったのだと、いまさらながら思います。
そして、あの先輩のアドバイスは的確だったと、改めて感謝の念が涌くのです。
未熟な私ですが、教えを学び、多少の経験も積み、年齢も重ねるうちに、多少なりとも人さまに教えをお伝えすることができるようになりました。
教えを聞いてくれた人の中に、自ら「戒」を立て、実践する人がいました。この人は、少しずつ成長していきました。
教えを聞くのが好きで、その都度有難がりながらも、「戒」を立てることをしない人は、いつまでたっても、同じ平面をぐるぐる回っているように見えました。
こうした人びとの姿からも、自ら「戒」を立て、たゆみなく実践することの大切さを、私は実感しています。