詩誌「詩人散歩」(平成29年冬号)

yuyake
◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  転法輪                   大場 惑


 法華三部経の開経とされる『無量義経(むりょうぎきょう)』に「転輪王(てんりんのう)」と出てくる。「転輪聖王(てんりんじょうおう)」とも言う。これについて庭野日敬師の解説がある。
 「むかしのインドでは、徳のすぐれた王には天から輪宝(りんぽう)というものが授けられ、その輪宝を転がしてゆけば、向かうところ敵なく、すべて征服される、といういいつたえがあります」(庭野日敬著『新釈法華三部経1』佼成出版社、p.66)
 経文にはしばしば「転法輪(てんぽうりん)」という言葉が出てくる。法輪を転がすということで、これについても解説がある。
 「〈転法輪〉というのも、たびたび出てくる大切なことばです。〈輪〉は、まえに転輪聖王のときに説明したものですが、仏の教えはあまねく衆生界をめぐりめぐって一切の煩悩をうち砕くというので、〈法輪〉といわれます。その法輪を転ずるというのですから、つまり〈法を説く〉という意味です」(同書、p.80)
 「仏説観普賢菩薩行法経」は、法華三部経の結経とされている。この中に「正法輪を断ずる」と出てくる。これについては、次の解説がある。
 「正しい教えは、車の輪がどこまでも回転していくようにひろがり、おおくの人を救うはずのものを、法を謗(そし)る口の禍(わざわい)によって、その回転が断ち切られることをいうのです。これほど恐ろしい罪はありません」(庭野日敬著『新釈法華三部経10』佼成出版社、p.151〜152)
 転がり出した車輪がどこまでも転がり続けるように、教えが世の中に伝わり広がって多くの人々が救われる。
 倒れた車輪はもう転がることができないように、教えが伝わるのを断ち切ると、その先の人びとが救われなくなる。
 そうしたことが「法輪」の教えとして説かれている。

 中村 元博士の監修になる『原始仏典第三巻』(春秋社)に「転輪王と人間の寿命−−−転輪聖王修行経」があった。Dr.phil.岡田真美子氏の翻訳である。この経に「天の輪宝」と「転輪聖王」の話が出てくる。
 転輪聖王の宮殿には「天の輪宝」がある。「輪宝」は、転輪聖王が作ったものではない。天から授かったものである。だから「天の輪宝」という。
 転輪聖王も老齢となって、宮殿から「天の輪宝」が消滅する。転輪聖王は引退して出家し、長男に王位を譲る。
 転輪聖王の後を継いだからといって、すぐに転輪聖王になれるわけではない。王位を継いだときには、輪宝は消滅したままである。輪宝が宮殿に現れたとき、はじめて転輪聖王となるのである。
 王は、出家した父王を訪い、どうしたらいいか教えを請うた。父王は言った。
 「息子よ、輪宝は父の遺産ではない。息子よ、さあ、聖なる輪宝を転じるというつとめを果たすのだ。お前が輪宝を転じるというつとめを果たし、第十五日目の満月の日にウポーサタを行なえば、輪宝が出現するであろう」
 「聖なる輪宝を転じるというつとめ」とは、いうなれば「自燈明・法燈明」の実践をすることである。真理の導きによって、悪いことをなさず、善いことをして、人びとの幸福のために尽くすことである。
 ウポーサタとは、より厳しく自分を反省し、真理にもとるところがあれば即座に改めることを言っていると考えられる。
 このようにして、立派な品性を備えた人物になることができれば、その時に輪宝が出現する。世間に賞讃されるような立派な品性を備えた人物となることを、輪宝が出現すると言っているらしい。したがって、輪宝は父の遺産ではない。徳行を積んだ王が、天から授かるものなのである。
 天の輪宝が出現し転輪聖王となった王は、輪宝に向かって言う。
 「尊い輪宝よ、回転せよ、輪宝よ、征服せよ」
 すると、輪宝は回転して東の方へ向かう。これを見た東方の諸王が転輪聖王のもとに来て、服従を誓う。転輪聖王は、諸王に、真理の教えを守るように言い置く。輪宝は今度は南の方に向かう。こうして転輪聖王はすべての方向の諸王を教化し、本国に帰還する。
 経文はこのあとも続くのであるが、割愛する。

 この話は、インドの説話が仏教によって意味づけられたのであろう。そのために、転輪聖王の輪宝がそのまま法輪になっている。