詩誌「詩人散歩」(令和04年夏号)

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◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  「五歳の思い出」           綱島 利江


 この冬、突然、ロシアがウクライナに軍事侵攻しました。戦禍に見舞われたウクライナの人々のすがたが連日報道されました。その悲惨なありさまに、私の東京大空襲での経験が重なりました。そのときのことを綴った私の拙い文章があります。五年ほど前のものですが、編集者のおすすめでこちらに掲載していただくこととなりました。ご一読いただければ、ありがたいと思います。

平成二十九年三月七日、私の春が来ます。
毎年続いている私と妹の例年の行事です。遠くに行くのではありません。向かう先は墨田区都立横網町公園の中にある東京都慰霊堂。昨年までは改装中でしたが、今年は新しくなっているはずです。
 毎年三月十日には慰霊法要が行われますが、参加する人が多いので私たちは混雑をさけ、その前後に行くことにしています。私たちの住んでいる京成志津駅から蔵前まで直通で行けます。
 戦後七十二年。当時の私は五歳でした。私の戦争の想い出は五歳の想い出、そして母が語り続けてくれた母の想いと一緒になっています。
 両親は墨田区太平町一丁目で「魚金」という魚屋を営んでいました。夜店通りということで夜はそぞろ歩きの人々の「お弁当」のおかずの「鮭」が売れたとのことです。
 私が戦争を意識したのは、いつも遊びに行く法恩寺の境内にあるブランコ、シーソーで遊んでいるときに、時々警報が鳴ったことです。そのつど家に飛んで帰ります。空襲警報の意味もわかりませんでした。工場地帯でもあり、お昼のサイレンを間違えて急いで家に帰り笑われたこともあります。
 各商店も物資がなくなり配給制度になりました。戦後、配給台帳が家に残っていたのを覚えています。今思えば戦争時代の貴重な資料でした。
 近所の食堂が雑炊食堂と呼ばれるようになり、お鍋をもって並びました。味も中身も忘れましたが当時は美味しかった事でしょう。
 「魚金」も閉店となり父は軍事工場に勤めました。閉店した店の土間に父が防空壕を作りました。電気を引き本棚を入れてくれました。
 五歳の私には戦争のことはわかりませんでしたが、東京でも多くの方々が被災していました。
 昭和二十年三月九日夜、防空壕にいた私は母にオーバーを着せられ、長靴を履かされ、弟のオムツが入ったリックを背負わされて、外の防空壕に移りました。町内の皆さんが作ったものです。
 しばらくすると父がここも危ないと言って、父の自転車に布団一組を積み母は二歳の弟を背負い私の手を引き外に出ました。
 外は人の波でした。父が広いところが良いと錦糸公園に向かいました。反対方向に行く人も多かったです、どちらに行くかが生死の分かれ道だったそうです。
 そのとき一人の女の子が泣いているのを母がみつけました。家族と離れてしまったとのこと「おばちゃんと一緒に行く」と聞くと「うん」というので歩き出したところで、女の子のお母さんに出会いました。泣きながら何回も何回も頭を下げるお母さん、先妻のお子さんで、もしものことがあったら申し訳ができなかったと娘さんの手をひいて反対方向に行きました。母は、あの二人は無事だったかと後々まで気にかけていました。 火の粉が飛び交う錦糸公園で、私たちは一晩過ごしました。夜が明けると父は家に向かい、私たちは近くの小学校に避難しました。周りは建物が一つも無く焼け野原でした。小学校に着くと避難をしてきた人でいっぱいでした。  そのとき、小さな子供だけにとおにぎりを頂きました。あの状態の中でどなたが作ってくださったのか忘れられません。  家に帰ることになりましたが、電線がたれ下がり、物が散乱の中、五歳の私は歩くのも大変で何かにつまずき魔法瓶を壊してしまいました。昔の魔法瓶は中がガラスでした。  家につくと回りはなにもなく水道が破裂して水が出っぱなっしでした。父が防空壕に水をかけ、中のものを取り出していました。大きなお釜が出ましたが少し溶けていました。お米を取り出しご飯が炊けました。  焼け残ったトタンを集め小屋ができました。
 近所の爆発した水飴工場から一斗缶を何本か持ってきました。私は当時珍しかった水飴に喜び「家がなくても水飴があるから良い」と言ったことを後々まで言われました。  父母の兄弟も近くにいましたので、母は私を連れて尋ねました。一軒は事前に疎開をしたと近所の方に言づけしてありました。母の姉は菊川町におり、亡くなった方々の遺体をまたいでたどり着きましたが、大人七人の家族がみつかりませんでした。  一晩で二十七万世帯の被害、十万人の命が奪われました。逃げる方向によっては私も亡くなる命だったのでしょう。
 終戦後、どこかに生きているかも知れないと母はラジオの尋ね人を熱心に聞いていました。
 焼け出されて数日後、父の実家から牛車で迎えに来てくれ船橋に移りました。途中で母と私と弟は電車で行くことになり、電車の通っている所まで歩くことになりました。線路を歩く方が早いというのですが、怖いのは川を渡るときでした。枕木の上を歩くのです。そのとき大学生の方が私を抱いて渡ってくれました。今でも電車で通るたびに川を見るとぞっとします。
 母が毎年三月十日を迎えるには、特別な想いがありました。両親が結婚をして私が生まれる前に伯母の娘さんを養女に迎えていました。私が生まれたので伯母のところに帰したそうです。いつまでもそのことは母の心に残っていたことと思います。私も私が生まれたために亡くなった姉を思い、母の想いとかさなります。
 都立横網町公園の東京都慰霊堂は陸軍被服廠跡に建てられています。大正十二年関東大震災の際、多くの人々が避難され焼死されました。そのときの、五万八千人の遭難者を供養するために慰霊堂と記念館が建てられました。そこに、東京大空襲の犠牲者十万五千人の遺骨も納められました。記念碑の中には犠牲者お一人お一人のお名前が記入され納められています。私も伯母の一家の名前を確認しました。
 江東区北砂の「東京大空襲戦災資料センター」にも多くの展示品があり当時を偲ぶことが出来ました。その作業をされた方々に敬意の念でいっぱいです。
 一瞬で今まで積み重ねてきた全ての物が灰になってしまいました。悲しさ悔しさは五歳の私には計り知れません。その中からの復興のエネルギーは何だったのでしょう。
 妹に「すごい中で生き残った尊い命だね、生きてて良かったね」と言われました。本当にそう思います。多くの犠牲の中で今ある命の使命を考え大切に生きて行きます。