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法を説く比丘
阿含経に「説法者」と題する経文があります。これを学ばせていただこうと思います。
「大徳よ、よく説法者、説法者と申しますが、いったい、説法者とはなんでありましょうか」(増谷文雄編訳『阿含経典1』ちくま学芸文庫、p.154)
この質問に対して、釈迦牟尼世尊は次のようにお答えになりました。
「もし比丘が、老死について、それを厭い離るべきこと、貪りを離るべきこと、そして、それを滅すべきことを説くならば、彼はまさしく法を説く比丘と称されることができる」(同)
老死に続いて、生・有・取・愛・受・触・六処・名色・識・行・無明のそれぞれについて同じことをお説きになります。
迷いと苦しみを滅する
この経文は、老死・生・有・取・愛・受・触・六処・名色・識・行・無明のそれぞれについて、同じことが説かれています。
貪りを滅する
次いで経文に、「貪りを離るべきこと、そして、それを滅すべきこと」とあります。
貪りというのは、必要以上に肥大化した欲望や醜く歪んでしまった欲望を言います。このような貪りを持っている間は、迷いと苦しみを避けることはできないのです。
正法を行ずる比丘
釈迦牟尼世尊はさらにお続けになります。
「また、もし比丘が、老死について、それを厭い離れること、貪りを離れること、そして、よくそれを滅することを行ずるならば、彼はまさしく正法を行ずる比丘と称されることができる」(同)
ここに「老死を厭い離れること」、「貪りを離れること」、「貪りを滅すること」とあり、この三つの「こと」を「行ずるならば」その比丘は「正法を行ずる比丘」と呼ばれるとあります。
釈迦牟尼世尊が「法を説く比丘」を説いてすぐに「正法を行ずる比丘」に言及なさったのは、人々のために法を説くだけでは、貪りを滅することはできず、迷いと苦しみから離れることはできないからです。正法を実践し、貪りを滅することによって、ようやく迷いと苦しみから離れることができるのです。
この世において涅槃に達した比丘
釈迦牟尼世尊は、お続けになります。
「また、もし比丘が、老死について、それを厭い離れ、貪りを離れ、それを滅しつくして、執着するところなく、解脱することを得たならば、彼はまさしくこの世において涅槃に達した比丘と称されることができるのである」(同、p.154〜155)
この経文には、正法を行じた比丘について述べられています。
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