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凡夫と聖者阿含経に「箭(や)によりて」と題する経文があります。その内容を学んでみたいと思います。 お釈迦さまの教えを聞かず実践しない人を「凡夫」といいます。凡夫も「快さ」を感じますし、「苦痛」を感じます。また、「苦痛でもなく快くもない」ことも感じます。 お釈迦さまの教えを聞いて実践する人を「聖者」といいます。聖者も「快さ」を感じますし、「苦痛」を感じます。また、「苦痛でもなく快くもない」ことも感じます。 凡夫も聖者も同じ人間なのです。しかし、明らかな違いがあります。お釈迦さまの教えを聞かず実践しない凡夫と、聞いて実践する聖者とでは、何が違うのでしょうか。 教えを実践しない凡夫お釈迦さまの教えを聞かず実践しない凡夫が苦痛を受けますと「泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱する」と経文にあります。 「泣く」とは、昂ぶる感情の表出です。肉体的苦痛にせよ、心理的苦痛にせよ、苦痛を受けると感情が昂ぶって泣きだすのです。「悲しむ」とは、自分が不幸になったという感情の表出です。自分は不幸になったという感情がますます昂ぶって、声ををあげて叫んだり、胸を打ったりするのでしょう。その挙句に、心が狂乱してしまうのです。ここでは、理性的な営みが行われていません。 苦痛を受けたときに、こうした苦悩が生ずることを、お釈迦さまは「第一の箭に射られて、さらに第二の箭に射られたようなものだ」とおっしゃいます。 凡夫は、苦痛を受けますと、怒りを発します。爆発的な怒りもありますが、 陰に籠もった怒りもあります。一時的な怒りもありますが、怒りが継続して恨みとか憎しみになることもあります。 怒りは否定の感情であり、破壊の感情です。その根っこには自分本位があります。 いったん怒りを発しますと、次から次へと、とめどなく怒りが生じ続けます。怒りが暴走しますと、自分に味方してくれるものごとや人にまでも怒りをぶつけ、否定したり破壊したりします。 これも、第二の箭に射られたすがたです。 凡夫は、苦痛を受けますと、欲楽を求めます。「欲楽」とは「欲望を満たすことによって得られる快楽」です。苦しみとは関係のないところで欲望を満たすことによって、苦しみを紛らわそうとするのです。 お酒に酔って苦しみを紛らわせるとか、ゲームに熱中して苦しみを忘れるとか、これに類した方法がいろいろとあります。これによって、自らを滅ぼしてしまう人も少なくないようです。 これも、第二の箭に射られたすがたです。 凡夫は、苦痛を受けたとき、理性的に、正しく対処することができません。ただ、感情を昂ぶらせるだけです。 そればかりか、快さを受けたときにも、感情的になって、理性的に、正しく対処することができません。 苦痛でもなく快くもないものを受けたときにも、感情的になって、理性的に正しく対処することができません。 いずれの場合も、理性的に、正しく対処することができないために、苦悩を生じてしまうのです。 教えを実践する聖者お釈迦さまの教えを聞いて実践する人を「聖者」といいます。聖者は、苦痛を受けたとき「泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない」と経文にあります。 たとえば、身体に苦痛を受けても、泣いたり、悲しんだりすることはありません。このことを、お釈迦さまは、「第一の箭に射られたけれど、第二の箭には射られなかったようなものだ」とおっしゃいます。 聖者は、苦痛を受けても、怒りを生じることはありません。また、欲楽を求めるということもありません。 聖者は、苦痛を受けたとき、理性的に、正しく対処します。快さを受けたときにも、理性的に、正しく対処します。苦痛でもなく快くもないものを受けたときにも、理性的に正しく対処します。 いずれの場合も、そこに苦悩が生じることはありません。 先ほど、「凡夫も聖者も同じ人間なのです。しかし、明らかな違いがあります」と申し上げましたが、その違いとは、このような違いなのです。 四苦八苦仏教では、「四苦八苦」ということを説いています。 第二の箭の教えを学んでみると、四苦八苦は、どれも第一の箭に当たるのではないかと思えてきました。いずれも人生上避けられないと思われる現象が述べられているからです。このことについて、簡単に見てみたいと思います。 生・老・病・死「生まれる、老いる、病気をする、死ぬ」という現象は、生きている限り、避けることができません。これらの現象によって、肉体的苦痛が生じます。それは、凡夫も聖者も同じです。 お釈迦さまの教えを聞かず実践しない凡夫が、これらの現象から肉体的苦痛を受けますと、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたります。怒りを発し、欲楽に走ります。苦痛に対する正しい対応の仕方が分からないからです。 お釈迦さまの教えを聞いて実践する聖者がこれらの現象から肉体的苦痛を受けても、泣くこともなければ、心が狂乱することもありません。怒ることもありませんし、欲楽に走ることもありません。苦痛に対する正しい対応の仕方を知っているからです。 怨憎する者に遭うは苦である仏教は「怨憎する者に遭うは苦である」と説きます。怨み、憎しみは、怒りが持続している心理状態です。 お釈迦さまの教えを聞かず実践しない凡夫は、怨憎する人に出遭うと苦痛を感じます。感情が昂ぶり、心を乱し、怒ったり、欲楽に走ったりすることもあります。こうして、ますます怨憎を深め、苦悩を深めます。 お釈迦さまの教えを実践する聖者は、怒りを発しませんから、怨憎を持つことはありません。しかし、聖者に対して怨憎を持つ人に接することがあります。 聖者は、自分に対して怨憎を持つ人と接しても、感情が昂ぶることもなく、理性的に、正しく対応します。争うことはありません。たいていの場合、相手も争いを続けることができなくなります。 愛する者と別離するは苦である仏教は「愛する者と別離するは苦である」と説きます。愛する者とは、いつまでも共に居たい人です。しかし、人と人とは、必ず別離するときがきます。 お釈迦さまの教えを聞かず実践しない凡夫は、愛する者と別離したとき、泣き、悲しみ、心を乱します。しばしば目にするのは、別離した人に心を奪われて、目の前にいる人をないがしろにするすがたです。 お釈迦さまの教えを聞いて実践する聖者でも、愛する人と別離したときはさびしさを覚えます。しかし、泣いたり心を乱したりすることはありません。別離した人を心に置きながらも、目の前にいる人を大切にします。 求めて得ざるは苦である仏教は「求めて得ざるは苦である」と説きます。 求める対象は、物やお金はもとより、地位を求め、権力を求め、名誉を求めます。また、人の愛を求めます。求めるものは数多くありますが、得られるものは少しです。 お釈迦さまの教えを聞かず実践しない凡夫は、求めたものが得られないと、泣き、悲しみ、心を乱します。怒りを発することもありますし、欲楽に走ることもあります。無い物ねだりをして、苦しみをいや増しにするのです。 お釈迦さまの教えを聞いて実践する聖者は、必要なものが、必要なときに、必要なだけあればいいという少欲知足の精神を持ち、得られたものに感謝をします。求めたものが得られないといって苦痛を感じることはありません。今あるものを有効に生かすことを考えます。 人間の存在を構成するものはすべて苦である仏教は「総じていえば、この人間の存在を構成するものはすべて苦である」と述べています。仏教が説く人間存在の構成要素は肉体と精神です。精神は、感覚・表象・意思・意識の四つの要素に分けられます。これらの要素がすべて苦であるとあります。それぞれの要素が、それぞれ苦痛を受けることがあるということでありましょう。 お釈迦さまの教えを聞かず実践しない凡夫は、いずれの要素に苦痛を受けても、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたります。怒りを発し、欲楽に走ります。苦痛の受け止め方も、対処の仕方も知らないからです。 お釈迦さまの教えを聞いて実践する聖者は、いずれの要素に苦痛を受けても、泣くこともなく、心乱れることもありません。怒りを発することもなく、欲楽に走ることもありません。それは、苦痛の受け止め方も、対処の仕方も知っているからです。 四つの聖諦お釈迦さまは、苦悩を解決する道として、四つの聖諦をお示しになりました。 お釈迦さまの教えを聞かず実践しない凡夫は、四つの聖諦を聞かず実践しない人々です。このために、苦痛を受けると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたるのです。怒りを発し、欲楽に走るのです。 お釈迦さまの教えを聞き実践する聖者は、四つの聖諦を聞き実践します。これによって、いかなる苦痛を受けても、泣くこともなく、心乱れこともありません。怒りを発することもなく、欲楽に走ることもありません。 凡夫と聖者の隔たりは、天と地ほどの差があると、お釈迦さまはおっしゃいます。その差は、四つの聖諦を学ぶか学ばないか、実践するかしないかで生じるのです。
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