[ビジネス縁起観からのメッセージ]        浪 宏友


 ある日、こんな言葉を聞きました。
 「悪いとは分かっていたけれど、誰にも、何にも言われなかったから、やめなかった」
 この人は、人の迷惑になることを、そうと知りながらやり続けていたのです。その日初めて、強くたしなめられたのですが、そのときの反応がこの言葉だったのです。その後、この人が、その悪いことをやめたかどうかは分かりません。

 してはいけないと分かっていながら、たしなめられると、「他の人もやっている」といって、やめようとしない人がいます。他人のせいにして、自分の非を認めず、悪いことをやめない貧しい心が見え透きます。

 人の迷惑になることを、悪いと分かっていながらやり続け、人からたしなめられると、逆に開き直る人がいます。その居丈高な姿は、とても人間とは思えません。

 人びとに暴力を揮う行為を、英雄的行為として讃える集団もあるようです。人間は、そこまで堕落することができるのです。

 仏教の唯識は、六つの煩悩と、二十の随煩悩を列挙しています。「随煩悩」に、次のような心が挙げられています。
「忿(ふん)」は、怒りの一種です。自分を攻撃した相手に対して敵意を持ち、やっつけてやろうという動作を引き起こします。
「恨(こん)」は、怒りがずっと続くことです。そのうちに忿が生じて、相手をやっつけようと攻撃し始めたりします。
「覆(ふく)」は、自分が悪いことをしたと分かっていても素直に反省することなく、隠してしまおうとする心です。隠しきれないと、「ほかの人もやってるよ」などと言い始めるのでしょう。
「悩(のう)」はここでは、怒りによって、相手に粗暴な言葉を浴びせかけることです。わざわざ相手の嫌がる言葉を選んで叩きつけたりします。
「害(がい)」は、非情・冷酷に相手を傷つけようとする心です。相手が苦しむのを見て面白がったりします。
「無慚(むざん)・無愧(むぎ)」は、自分で悪いことをしたと知りながら、恥ずかしいとは思わない心です。ですから、いつまでも、悪いことを繰り返します。

 人間には、こういう浅ましい心があるのです。単なる理論ではないのです。現実に起きていることなのです。他人を非難する前に、自分がこういう心を持っていないか、働かせていないか、気をつけることが大切です。
 悪いことを行なえば、必ず、そのリターンが自分に及んでくるのです。(浪)
☆「詩人散歩」平成29年秋号に掲載