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私の手元に広告マッチがある。いつの間にか溜まっていた。全部で263個。一度も使ったことがない。 ホテルや喫茶店などにいくとマッチが置いてある。私はタバコを吸わないから使わない。それなのにポケットに入れて持ち帰り、ダンボール箱に放り込んでいた。サラリーマン生活35年間、その後のコンサルタント生活。いつのまにかこの数になっていた。貰ったものはひとつもないし、わざわざ集めたものもないから、これは間違いなく、私が行った先から持ち帰ったものばかりである。 私の手元にあるのは、ホテル・旅館や喫茶店・飲食店がほとんどである。 顧客の手元に残るマッチは、いわばCI(コーポレート・アイデンティティ)戦略の一環となるから、店の名前やイメージが心に残るように苦心工夫するのであろう。店の住所や電話番号を入れるのは、顧客が再び利用してくれることを願ってのことであろう。 私が外出や出張の多い職場に入ったのは1975年(昭和50年)前後であったと思うからこれらのマッチもそのころから溜まりだしたはずである。眺めていると、これはあそこだと思い出す店もあれば、まったく記憶が蘇らないものもある。 私が子供の頃に見ていたマッチは、広告マッチではなかった。どのマッチにも同じ絵が描いてあった。マッチ会社の商標で、有標マッチというのだそうだ。有標とは商標が成立しているという意味だという。世間には、有標マッチのコレクターが大勢いるらしい。資料によれば、1898年(明治31年)に東京で、第一回燐票会が開催されたとある。燐票というのは、マッチに張り付けられた商標のことである。 有標マッチを集めているKさんによれば商標マッチの登録件数は1919年(大正8年)頃には2万件にもなっていて、色々なバリエーションを加えると数十万種になっていたらしい。 マッチの商標には、それぞれの時代を映す社会事象やエピソードが隠れていることも、有標マッチコレクターたちの魅力のひとつになっているのであろう。 広告マッチの走りは明治時代からあったそうだけれど、当初はあまり広がらなかったらしい。盛んになったのは、太平洋戦争が終わってからであるようだ。 マッチ箱は昔は経木(薄い木)で出来ていた。それが紙製に変わりはじめたのは1954年(昭和29年)前後である。中箱がまず紙製となり、数年遅れて外箱も紙製になった。 箱が経木であったときは、マッチのラベルはひとつひとつ貼りつけるしかない。それが紙製になれば一気に印刷できるようになっただろう。これで広告マッチの製造がやりやすくなり、需要が一気に増えただろうと想像ができる。 1955年(昭和30年)頃からブックマッチの製造が国内で始まっているが、これも広告マッチの需要を後押ししたかもしれない。 『国産マッチ130年の歩み』(社団法人日本燐寸工業会発行)には、マッチが最も多量に出荷されたのは1973年(昭和48年)とある。その中で広告マッチの占める割合は63パーセント近くであったという。ものすごい量の広告マッチが巷間に溢れていたわけである。 ところが1973年(昭和48年)秋に起きた石油ショックのためか、1974年(昭和49年)には広告マッチが激減し、このためマッチ全体の出荷量も激減している。 その後のデータは分からないけれども、1976年(昭和51年)頃から使い捨てライターが現れ、また広告ティッシュなどの出現もあったから、広告マッチは相当減少しているであろう。 マッチの動向も、時代の波の中で、大きく揺れ動いているらしく思われる。(浪)
出典:清飲検協会報(平成20年10月号に掲載)
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