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「釈迦牟尼世尊の説法」
釈迦牟尼世尊は、深い思索と直観によって、存在の法則を悟った。これによって人間の本質が明らかになった。そこから、人間は如何に生きるべきか、人間と人間の関係はどうあるのが正しいのかということが判明した。ところが、世の中の人々は、およそ人間の本質から遠く隔たったところを歩んでいた。
釈迦牟尼世尊は、人々が本質的な生活、人生を送ることができるように、いろいろと教えを説いた。その教えは経文となって今に伝わり、多くの人が聞きまた学んでいる。
「実践するべき教え」
釈迦牟尼世尊の教えは聞けばありがたい、知っていれば偉いというものではない。家庭の中で,職場の中で,日常生活の中で,身口意の三業に実践して始めて意義が生まれる教えである。
経文を学んだりお経の話を聞いただけで実践しないのは、料理法を教わったけれど作らないのと同じようなもので、なんの結果ももたらさない。
妙法蓮華経従地涌出品に、大地から数知れない菩薩が涌きだす場面がある。そのリーダーが四人いる。その名前は上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩という。四人とも、「行」の菩薩である。すなわち、実行する菩薩である。ここでも、釈迦牟尼世尊の教えは、実行してこそ価値を発揮することが語られている。
教えの勉強をしたり、教えを説いたり、瞑想にふけったり、特別な修行をしたりするのは、ある意味で大切なことである。しかし、それで終ってしまったのでは、本当の価値を見出すこともなく、味わうこともないままに過ごしてしまうことになるであろう。
「勘違い」
ところが、多くの人々が、釈迦牟尼世尊の教えを聞いて、ああ、ありがたかったですましている。
いい話を聞いた、本当にそうできればそれに越したことはないなどと言いながら、自分が実行する気持ちはさらさらない。それどころか、教えを聞いてありがたく思っただけで、あるいは経文を唱えることができるようになっただけで、自分はもう極めたような気持ちになってしまう。
このため、教えは自分を反省する鏡ではなく、他人を責めたり非難したりする凶器になってしまうことすらある。こうなれば、教えは幸せをもたらすありがたいものから、争いを作り出したり,恨み憎しみのもとになってしまう忌まわしいものに変わってしまいかねない。
「経文の価値を生むもの」
経文がありがたいのは、経文の奥に真理が横たわっているからである。この真理をつかんで実行すれば、間違いなく幸せになれるからありがたいのである。経文を読んだり、特別の修行をしたりしても,真理をつかむことなく、まして日常生活に実行することもなければ、如何に尊い内容の経文だとて、何の役にもたちはしない。
経文を本当にありがたいものにするかどうかは、読んだ人、学んだ人の実践のあり方であると、肝に銘じるべきではあるまいか。
註:身口意の三業(しんくいのさんごう)とは、身の振る舞い、言葉の振る舞い、心の振る舞いのこと
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