声聞・縁覚
妙法蓮華経にはしばしば「声聞・縁覚・菩薩」という言葉がでてくる。これらは修行者の類型として理解することができる。
「声聞」は「声を聞く」となっている。師匠の声すなわち教えを聞いて、真理を理解し、理解した真理を実践して、人格の向上を図ろうとする修行者である。学習主義の修行者と言われている。
「縁覚」は「縁(条件)によって覚る」となっている。現実を観察し、そこに含まれる真理を見いだし、見いだした真理を実践して、人格の向上を図ろうとする修行者である。体験主義の修行者と言われている。
声聞と縁覚に共通しているところは、ともに真理を求めていること、得られた真理を実践していること、真理を実践することによって人格を向上しようとしていることである。
人格が向上すれば、間違った欲望を持つことも無くなり、我を通して人とぶつかり合うこともしなくなり、気に入らないからといって怒りだすこともなくなる。
人格が向上すれば、いつも安らかな心を保ち続け、自分のなすべきことをなし、周囲の人々から信頼され、自己実現を果たしながら充実した毎日を送ることができるようになる。
菩薩
菩薩はサンスクリット語のボーディサットヴァを短くした言葉である。ボーディは覚る、サットヴァは生きている者だから、ボーディサットヴァは覚りを求める人となる。菩薩もまた声聞や縁覚と同じように真理を求めているのである。
真理を求め、覚った真理を実践するという意味では、三者に異なるところはない。しかし、真理の求めかたには明らかな違いがあり、目的にも微妙な違いがある。
声聞は釈尊から教えを受けて理解し実践するという求めかたであった。
縁覚は釈尊からヒントは得るけれども、修行の根幹は観察と経験であり、自ら真理を覚り、覚った真理を実践するという行きかたであった。
両者の目的は自分自身の人格向上である。声聞と縁覚は自らの覚り、自らの実践、自らの成長で完結する。
菩薩の真理の求めかたはまた違っていた。菩薩の特質は「上求菩提・下化衆生」であると言われる。これを「覚りを求めつつ、衆生を教化する」というふうに解釈する人が多いようだ。しかし私は「衆生を教化するという修行を通して覚りを求める」と解釈している。実際に人々を真理に導こうとすると、どうしても自分自身を高めなければならないし、視野を広げ、智慧を磨かなければならなくなるからである。
菩薩は人々を教化することによって真理を覚り実践する。目的は、自らの人格の向上と他の人々の人格の向上である。
菩薩は、他の人々に真理を覚らせ実践させることを通して、自らの覚りを深め実践を深めるのであるから、教化すべき人々が存在する限り、活動が完結することはない。教化すべき人々は、世界各地各時代に存在するのであるから、菩薩の活動は時間的にも空間的にも、大きな広がりを持って尽きることがない。
人々や社会に幸福をもたらす効果は、声聞・縁覚の修行では限定的であるが、菩薩の修行なら、どこまでも広がる可能性を持つこととなる。
経営者・ビジネスパーソンは須らく菩薩の自覚を持つべきであろう。顧客をそして世間を幸福に導くという活動を通して、自らの人生の意義を高めるという営みは、まさしく菩薩の営みにちがいないからである。
声聞・縁覚から菩薩へ
声聞・縁覚・菩薩は真理を求め真理を実践する修行者の類型であることが分かってきた。それぞれ、学習主義の修行者、経験主義の修行者、人々を真理に導くことによって自らの覚りを深める修行者であった。
真理を求める修行者は、これらの類型のいずれかに当てはまっていくわけであるが、固定的ではない。あるときは声聞的な修行をし、あるときは縁覚的に自分を磨き、あるときは菩薩的に人々とともに成長する。
無量義経には、声聞的な修行者を対象として説いた教えを聞いて菩薩的な修行をした人、逆に菩薩的な修行者のために説いた教えを聞いて声聞的に覚りを得た人などが記述されている。
しかし、いくつかの経文に接してみると、声聞的な修行、縁覚的な修行では上限があるらしく、人間の無限の可能性を発揮するには菩薩的な修行に入る必要があるらしい。
法華経が、声聞・縁覚の修行をしてきた人々に、菩薩の修行に入れと勧めているのはこのためなのであろう。ここでは、勧めに応じて、多くの修行者が上求菩提・下化衆生の修行に入っている。
人材育成
人は、時期に応じて声聞的になり、縁覚的になり、菩薩的になる。自分は声聞である、縁覚である、菩薩であるなどと、固定的に考えるべきではない。
はじめは声聞的に成長し、次いで縁覚的に自己開発を進め、さらには菩薩的に人々と共に成長するというプロセスも、当然考えられる。
まず、正しい理論や正しい方法を教わって理解し実行する。
次に自分で観察し、考えて、正しい理論、正しい方法を見いだし実践する。
いくらかでも身につけたものがあれば、後輩など他の人々に正しい理論と正しい方法を教えつつ、その中からさらに深い内容を見いだしながら、自分自身が成長する。
このような手順は、家庭教育にも、学校教育にも、また会社における人材育成にも適用できるものである。
このような教育順序は、いまさら真新しいことではない。いや、釈尊の時代から伝わり、今なお廃れることのない、普遍的手法であることを、再認識すべきではあるまいか。