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四つの聖諦と原因・結果の原理
苦しみ・悩みは仏教で解決コマーシャルではありませんが、「苦しみ・悩みは仏教で、現実に、解決できます」と、申し上げたいと思います。 仏教といっても、祈祷仏教、葬式仏教、観光仏教ではありません。行事仏教でもなければ、説教仏教でも、瞑想仏教でも、学問仏教でもありません。 適当なニックネームも思いつかないので、不器用に「苦しみ・悩みを解決できる仏教」と言っておきます。 それは、「四つの聖諦(しょうたい)」という理論を用いて、苦しみ・悩みを解決する道筋を解明し、中道・八正道を実践してその道筋を歩めば、苦しみ・悩みは解決するという仏教です。 仏教の祖であるお釈迦さまが、初めての説法でお説きになった教えが「四つの聖諦」と「中道・八正道」だったと、原始仏典が伝えています。 今回は、「四つの聖諦」について、ご説明してみたいと思います。 「諦」は、ここでは「明らかにする」という意味です。「聖」は、尊ぶという気持ちを込めた接頭辞です。「四つの聖諦」は、「四つのことを明らかにする」という意味になります。
原因・結果の原理「四つの聖諦」は、「原因・結果の原理」によって構成されています。四つの聖諦の説明に必要な範囲で、「原因・結果の原理」を確認しておきたいと思います。
四つの聖諦お釈迦さまがお説きになった「四つの聖諦」は、次のような理論です。
A〜Cの主題は「自分にある苦の原因」です。苦を解決するために取り組むのは「自分にある苦の原因」であることが分かります。 私は、経営コンサルタントをしております。その理論的根拠は、四つの聖諦・中道・八正道をはじめとする仏教です。 苦しみ・悩みを持った経営者がお見えになりますと、私は、四つの聖諦を念頭にお話し合いを進めます。お話が進みますと、どうしても、苦しみ・悩みを解決するためには「自分にある苦の原因」と取り組むことになるという内容のお話に入っていきます。 ここで渋い顔をなさった経営者は、二度とお見えになりません。この経営者は「自分にある悩みの原因」を持ち続けますから、その後も悩みが生じ続けることになります。 なかに「自分にある苦の原因」と取り組むために、引き続きお見えになる方が、少数ですが、いらっしゃいます。この方は、「自分にある苦の原因」を少しずつ滅して、確実に前進なさいます。私は、この勇気ある方を尊敬しつつ、お話し合いを続けさせていただいております。
四つの聖諦と原因・結果の原理「四つの聖諦」の理論を、「原因・結果の原理」で考えてみましょう。 「苦を明らかにする」では、次のように考えます。 自分が、今、何を、どのように苦しんでいるのかを明らかにします。自分が、今、苦しんでいることは「結果」と見ることができます。 「苦の原因を明らかにする」では、次のように考えます。 「原因・結果の原理」は、「結果が出ているからには、原因がある」と言っています。「自分が、今、苦しんでいること」は「結果」です。そこには、なんらかの「原因」があるはずです。その「原因」を明らかにするのです。それも「苦しんでいる本人にある苦の原因」を、あきらかにするのです。 「苦の原因を滅すれば、苦が滅することを明らかにする」では、次のように考えます。 「原因・結果の原理」は、「結果を滅したければ、原因を滅すればよい」とあります。「苦」という結果を滅したいのですから、「自分にある苦の原因」を滅すればよいことが分かります。 「苦の原因を滅する道を明らかにする」では、次のように考えます。 「道」とは、「行なうべきこと」です。「自分にある苦の原因を滅するために、自分が行なうべきこと」が「道」です。 「自分にある苦の原因から出てくる行ないをやめて、正反対のことを行なう」というのが基本となります。その内容は、真理に合っていることが求められます。例えば、怒りっぽい人なら、怒るのをやめて、優しい言葉をかけるように努めるのです。 仏教では、ここで、中道・八正道の実践が勧められます。
相手にある苦の原因「四つの聖諦」は「自分にある苦の原因」を主題として、話が進められています。しかし、「苦の原因」のところで述べましたが、苦の原因はいくつもあります。自分以外の人にある苦の原因もあります。それを滅しても、苦は滅します。 例えば、親子喧嘩を考えてみましょう。このとき、親にも喧嘩の原因がありますし、子にも喧嘩の原因があります。 親が、自分の中にある喧嘩の原因はそのままにして、子に、お前が改めろと要求したら、子は改めるでしょうか。たいていの場合は、改めません。親も改めず、子も改めないとしたら、親子喧嘩はこれからも続きます。それも、ますます険悪になるに違いありません。つまり、相手に求めても、無意味だということです。
自分にある苦の原因を滅する人・残す人親子喧嘩をしていた親が、努力して自分にある喧嘩の原因を滅したとしましょう。すると、親子喧嘩はなくなります。 子としては、自分は何もしないままで、親子喧嘩という苦しみが滅しました。相手にある苦の原因が滅しても、苦は滅するのです。 親のほうは、喧嘩の原因を滅しましたが、子には、喧嘩の原因が残っています。 子は親に、喧嘩を仕掛けるかもしれません。しかし、親には喧嘩の原因がありませんから、喧嘩は始まりません。 親の方は、親子喧嘩をしなくなるだけでなく、夫婦喧嘩もしなくなるでしょうし、他の人との喧嘩もしなくなるでしょう。 自分にある苦の原因を滅した人は、現在の苦がなくなるだけでなく、その後の苦もなくなるという結果を得ることができるのです。 子のほうは、親を相手にした喧嘩は無くなりましたが、自分の中に喧嘩の原因が残っています。 喧嘩の原因は、喧嘩の相手を求めますから、だれか他の人と喧嘩を始めます。そこに新たな苦が生じるのです。 自分にある苦の原因を残した人は、その後も繰り返し、苦しむということになってしまうのです。
自分にある苦の原因を滅する効果以上から、苦を滅するために、自分にある苦の原因を滅すると、これから先、苦が生じなくなることが分かりました。 自分にある苦の原因がひとつだけなら、これで済むのですが、実際には、自分の中には、複数の苦の原因がひそんでいるのです。 苦の原因をひとつ滅したら、その原因による苦しみは、これから先、起きないのですが、そのほかの原因による苦しみは起きてきます。 そこで、自分にあるいくつもの苦の原因を、ひとつひとつ滅するのです。そして、すべての苦の原因が滅すれば、その後、苦はまったく起きなくなります。 「自分にある苦の原因」を滅するときの苦労は、最初が一番大きくて、だんだんに小さくなるものです。 四つの聖諦を初めて学び、初めて自分にある苦の原因と取り組む努力は難しいものですが、これを突破した人は、確実に、幸せへの道を歩むことになります。
自分にある苦の原因ところで、「自分にある苦の原因」とは、一体、何でしょうか。 迷いとか三毒とか無明とか、いろいろと理論がありますが、これについては、稿を改めて、勉強させていただきたいと思います。 |