詩誌「詩人散歩」(平成20年夏号)
◆これまでの【エッセイ】を掲載しています。

  人生無駄はない                     中野典子


 亡母の命を受け、暗中模索をしていた私はこの原稿を書かなくてはならないと思いました。母は平成十三年十二月に六十六歳で他界しました。
 私の夢の中に現れる母は、いつも黙っていましたが、先日の夢では「短歌、俳句を五句宛書きなさい」と初めて言葉を発したのでした。詩人散歩には母が創刊号からお世話になっていましたので、ありのままの事を書かせて頂きたいと思いました。
 母が他界した後、人生で大変な事が重なりました。離婚、実家を引き払い、知らない土地へ引越し、子供の転校、いじめ、登校拒否。私は、喪失感、孤独感、帰る家のない淋しさがやがて、母の所へ行きたいと思う様になりました。いつも私や子供の事を心配して、頼りにしていた母がいなくなってしまった事が悲しくて、寂しくて、毎日泣き暮らしていました。その頃から、心身共に病んでいきました。母とはとても気が合い、一番の友達の様な感じで、本当に笑い合っていた楽しかった日々が思い出されて、胸が締め付けられていました。憂うつで無気力、何に対しても興味はなく、いつもだるく、めまい、頭痛、食欲不振、不眠、早朝覚醒で、体は鉛の様に重くなってゆきました。生きる事が辛い日々をやっと生きている状態でした。私が一人だったらきっと死んでいたでしょう。しかし二人の息子(小三、小五)を育てなくてはならないので思い止まりました。私は七ヶ月後にやっと病院へゆき、うつ病と診断されました。とに角、生きる為に、仕事をしなくてはならないので、今迄やった事がない看護助手や、介護ヘルパーをしました。薬を飲んでいましたが、仕事中、母の事を思い出しては涙が溢れてくることがしょっち?うで、仕事をすることが、辛くて辛くてどうしようもない日が続いていました。
 そんな日々が四年続いたある日、一人暮らしをしていた八十一歳の父が倒れて病院に運ばれましたが、大病もなく退院することが出来ました。しかし、私には素直にお父さんと呼べない感情がありました。私の両親は離婚し、八歳の時、母方の祖父母と母と四人で暮らしましたが、養育費も慰謝料も貰えませんでした。その為、身体障害者二級の母が、一所懸命働いて、高校を卒業させてくれました。私が就きたかった鍼灸師になる為には、お金のない我が家では無理でした。家では祖父に殴られ、蹴られ、学校ではいじめに七年間も遭い、私の安らぎの場は何処にもありませんでした。“お父さんさえ、しっかりしてくれていれば私はこんな目に遭うはずじゃなかった”と、禁治産者の父を恨む様になりました。
 そして決定的な事が起きました。父は妹と暮らしていた時期がありましたが、妹が鬼籍に入った後その娘(従妹)に通帳と印鑑を渡して、私よりも信頼を寄せたのです。私は、その頃とても忙しく、仕事、育児、家事に追われ、恨む気持ちもあり、あまり父の所へは行きませんでした。その後従妹は、家の鍵を変えて私が入れない様にしたので、もう父はいないものだと思う様にしました。
しかし、父が倒れた時、一人しかいない親だからお世話をさせて戴こうと思いました。
 私がうつ病になって‥‥人の気持ちが少し汲める様になった。貪欲があまりなくなった。感謝の心が少し持てる様になった。怖いものが減った。少しおおらかになった。がむしゃらに生きる事をやめた。今迄、人の為に生きてきたけど、これからは自分の為に生きようと思う。いい子を演じるのを止めた。
 生かされている私を慈しみ、みなさまにありがとうと言いたいと思います。

  桜                            山口ハル子


 窓から見える桜の大木に今年も又いっぱい花が咲いた。毎日ながめて春だなと思っている。テレビで見るあちらこちらも桜の花ざかり美しいなと思う。
 子供の頃から咲いた咲いたと思っているから、老木であろうと思う。桜さんもう幾つと話しかけたく思う。季節忘れず人の心も和ませてくれてありがとう。道行く人も美しいなとながめて行かれるだろう。ありがとう桜さん。
 又花の季節がめぐって来ます。又来年も美しく花を咲かせて人の心を和ませて下さい。ありがとう桜さん。