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自分が変われば相手が変わる?若いころの私は、結構、怒りっぽい性格でした。誰かに怒鳴りつけられると、怒鳴り返したりもしていました。原始仏典の『ダンマパダ』には、繰り返し繰り返し「怒るな」と出てきます。また、相手から怒りをぶつけられても、怒り返してはならないと出てきます。若いころの私は、お釈迦さまの教えに逆らいっぱなしでした。 少しはものが分かってきたころ、そんな自分を振り返って、これではいけないと思いました。そして、お釈迦さまの教えに従って、怒らない修行に入りました。 そうは思っても、怒り癖がついている私ですから、気が付くと怒っています。そのたびに、しまったと臍(ほぞ)を噛(か)んで、冷汗を流しました。それでも、修行は続けました。おかげさまで、少しずつですが、怒らなくなってきました。 かなり、怒らなくなったころ、あることに気づきました。私に対して怒りをぶつけていた人が、怒りをぶつけなくなっていたのです。自分が変われば相手が変わると言います。私が変わったので、相手も変わったのかもしれません。 その一方で、相変わらず、私に対して怒りをぶつける人もいました。私が変わっても、変わらない相手もいるのでした。 このことを先輩に訊ねましたら、 「お前は相手を変えるために自分を変えるのか」と叱られました。 「いえ、ちがいます」 と、慌てて答えながら、気がつきました。相手が変わるか、変わらないかはどちらでもいいのです。自分が変わるか、変わらないかが本題なのです。 よくよく考えてみれば、相手が変わるか変わらないかは相手が取り組むべき問題であって、私が取り組むべき問題ではないのです。 私の取り組むべき問題は、相手がどのようなすがたを見せようとも、怒ってはならないということなのです。 私は、何か、納得がいったような気がしました。 おかげさまで、現在は、ほとんど怒らなくなりましたし、怒りに任せて怒鳴るということは、ほぼ、なくなりました。修行したのは、無駄ではなかったと思います。 自分が変わる自分が変わるとか、自分を変えるとか言いますが、これは、どういうことなのでしょうか。怒りっぽかった私が、怒らなくなった。これは、私が変わったということだと思います。それでは、私の何が、どう、変わったのでしょうか。 怒った時の私は、よく怒鳴りました。これが無くなりました。「怒鳴る」という言語的行為(以下「言葉」)が「怒鳴らない」と変わりました。これは、私が変わったことの一つだと思います。 怒った時の私は、動作も荒々しくなりました。これが無くなりました。「荒々しく振舞う」という身体的行為(以下「行為」)が「荒々しい振る舞いをしない」と変わりました。これも、私が変わったことの一つだと思います。 これによって、他人からは、私の言葉が変わり、行為が変わったと見えることでしょう。 「自分が変わる」というのは、外見的には「言葉が変わる」ことであり、「行為が変わる」ことだと分かります。 さらに振り返ってみますと、怒ったときの私は、心の中が煮えくり返るようでした。怒りの感情が、次から次へと湧き上がってきたのです。これが無くなりました。「怒りの感情が湧き上がる」という精神的行為(以下「心」)が、「怒りの感情が湧いてこない」と変わりました。これも、私が変わったことの一つだと思います。あるいは、これが一番重要なことかもしれません。 ここから、私が変わったということは、私の言葉と行為が変わったことに加えて、私の心が変わったということになります。 「自分の言葉が変わる」 「自分の行為が変わる」 「自分の心が変わる」 これが、「自分が変わる」ということでありましょう。自分が変わるというのは、自分の言葉・行為・心が、より良い方向に変わることを意味しているのです。 お釈迦さまの教えお釈迦さまの教えは、自分をより良い方向に変えることを教えてくださる教えだと言えます。お釈迦さまの教えの中心は、四つの聖諦(苦聖諦・集聖諦・滅聖諦・道聖諦)と八つの聖道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)だと思います。お釈迦さまは、すべての人が、八つの聖道を実践することを願っていらっしゃいます。 八つの聖道から、次のことが分かります。 自分の言葉遣いを振り返って、悪い言葉を使っていたら、これをやめて、善いことばに切り替えるのです。 自分の行為を振り返って、悪い行為をしていたら、これをやめて、善い行為に切り替えるのです。 自分の心の中を振り返って、悪いことを思ったり考えたりしていたら、これをやめて、善いことを思ったり考えたりするように切り替えるのです。 このように、自分を善い方に切り替えることが、自分を変えるということです。 八つの聖道を実践することによって、悪い行ないをする自分を、善い行ないをする自分に変えることができるのです。 善い・悪いところで「善い」「悪い」は、どこで判別するのでしょうか。人は、自分の言ったこと、したことは善いことだ、正しいことだと思うものです。しかしながら、他人からは、お前の言っていること、していることは悪いことだ、間違っていると非難されます。自分の判断基準と、他の人の判断基準が異なっているのです。一人一人が、自分の判断基準が正しいと主張すれば、人の数だけ正しいができて、収拾がつかなくなります。このままでは、混乱が生じるばかりです。 人間平等とか、人道的見地とか、包括的かつ普遍的な思想があるわけですから、善い・悪いにも、包括的、普遍的な判断基準があってしかるべきだと思います。各個人の判断基準はひとまず棚上げして、包括的、普遍的な判断基準で善い・悪いを判断し、行動するという行き方を考えてみたらどうかなと思います。 仏教に「中道」という考え方がありますが、私は、これを善・惡の包括的、普遍的な判断基準としてよいと思っています。 私は「中道」を基礎にして、実務的見地から、「自分・相手・世間のすべてを幸せに向かわせるはたらきをする言葉・行為・心」が、「正しい言葉・行為・心である」と考えています。こうした、正しい行ないをすることが「善」であり、ここから外れた行ないをすることが「惡」であると考えられます。 自分を振り返って、自分の言葉・行為・心が、自分・相手・世間のすべてを幸せに向かわせるはたらきをしているかどうかを吟味して、自分が善い行ないをしたのか、悪い行ないをしてしまったのか、反省することが大事だと思います。そして、悪い行ないをする自分を発見したら、そのような自分を、善い行ないをする自分に変える必要があると思います。 さらに一歩を進めるなら、現在、自分は善い行ないをしているとしても、それで満足せず、もっと善い行ないができるように、自分を成長させることを考えるべきでしょう。これも、自分を変えることだと思います。 自分を変えたくない私の親友である菊地良輔氏((株)ピー・シーコーポレーション社長)が、私を講師とする勉強会「浪 宏友ビジネス縁起観塾」を、毎月1回、東京の四谷駅にほど近い喫茶室ルノアール四ツ谷店で開催してくれています。菊地氏と私の勉強会は、かれこれ50年以上前から行なわれています。この間、多くの方々が、参加してくださいました。この勉強会で、私は、あることに気づきました。 仏教を学んでいますと、必ず、自分を変えるという話になります。現在の自分を、より高い人格の自分に変えるという話になります。これは、仏教の教えから、当然、そうなるのです。 ところが、そういう話になりますと、ある方々は、次回からお見えにならないのです。どうやら、自分を変えたくないらしいのです。 これは不思議なことです。自分を変えて、人格を高めれば、いま以上に幸せになるのです。しかし、この方々は、自分を変えようとしないのです。自分を変えるとは、自分の言葉・行為・心を改善することですが、それをしないのです。いま以上に幸せになる道に入らないのです。 確かに、自分を変えるのは、楽なことではありません。そこを少し我慢して、自分を変える努力をしてみたら−−−お釈迦さまの教えを学び、理解し、実践してみれば、その価値が分かるはずなのですが、そこに到達する前に、学ばなくなってしまうのです。もったいないなあと思いますが、あえて、お引止めはしません。 お釈迦さまは「如来はただ教えを説くだけ」(中村 元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』ワイド版岩波文庫、p.48)と、おっしゃっておられます。自分の人生は、自分で選んで歩むほかないということだと、私は受け取っています。 |