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[経営コンサルタントとして学ぶお釈迦さまの教え]−幸せへの道     浪 宏友


 

自分が愛しい

 お釈迦さまが、コーサラ国の祇園精舎におられたときのお話です。
 コーサラ国の王が、王妃と共に、宮殿の高楼に登っていました。
 王は、王妃に話しかけました。
 「王妃よ、そなたは、そなた自身よりも、もっと愛しいものがあるだろうか」
 王妃は、少し考えて、
 「王さま、私は、私自身よりも、もっと愛しいものを見つけることができません」
と、お答えしました。そして、
 「王さまは、いかがでございますか」
と、尋ねました。王は、
 「私も、私自身よりも、もっと愛しいものを見つけることができない」
と、答えました。
 「自分自身よりも愛しいものをみつけることができない」ということに、一抹の不安を感じた王と王妃は、お釈迦さまのもとへ急ぎました。
 お釈迦さまは、王の話を聞いて、次のようにおっしゃいました。
 「人は、自分よりも愛しいものを見つけることはできないのです」
 続けて、次のようにおっしゃいました。
 「他の人々も、自分自身が、この上なく愛しいのです。ですから、自分が一番愛しいことを知ったからには、他の人を害してはいけません」

   自分は、自分が一番愛しい。
 他の人も、その人自身が、一番愛しい。
 だから、他の人を、害してはいけない。

 相手が誰であろうと、人間関係を結ぶときには、思い出すべき教えであると思います。

  

自分を大切に生きる

 自分は自分が一番愛しいのです。そうであれば、自分は、自分を幸福にするように生きるべきでありましょう。
 自分を幸福にする道を、お釈迦さまは、次のように説いておられます。

 悪い言葉を使わない。
 悪い行為をしない。
 悪い心を捨てる。
 生活を整える。

 そして、このような生き方ができる自分になるための道として、八正道を説いてくださいました。

  

他人の幸せ

 この教えでは「他の人を害してはいけない」とあります。他の人を害しますと、その人が不幸になります。他の人を不幸にしてはいけないのです。

 逆に「他の人を幸せにしなさい」とはおっしゃっていません。実は、他の人を自分の努力で幸せにしてあげようと努めても、その人が幸せになるとは限らないのです。
 その人が幸せになるには、その人自身が幸せになるための努力をする必要があるのです。さきほどの「悪い言葉を使わない、悪い行為をしない、悪い心を捨てる、生活を整える」 という努力を、その人自身がしてくれなければ、こちらが何をしてあげても、その人は幸せにならないのです。
 その人が幸せになる努力をしているならば、こちらから応援することも出来ますし、手助けをすることもできます。
 しかし、本人にその気がないのでは、何をしてあげても、無駄骨に終わってしまいます。

  

子どもの幸せ

 「親が努力すれば子供が幸せになる」と考える人がいます。子どもの幸せのために親が努力するのは、自然なことでありましょう。
 ただ、このときやりかたを間違えると、とんでもないことになることもありますから、くれぐれも注意が必要です。

 子供を幸せにしたかったら、まず、親が「悪い言葉を使わない、悪い行為をしない、悪い心を捨てる、生活を整える」という努力をして、幸せの手本を子供に見せるのです。
 そして、子供を「悪い言葉を使わない、悪い行為をしない、悪い心を捨てる、生活を整える」という努力に導き、手助けするのです。この四つの努力が身についた子供は、間違いなく幸せになります。

  

自分を幸せにする

 お釈迦さまは「人は、自分よりも愛しいものを見つけることはできないのです」とおっしゃいました。
 最も愛しい自分を幸せにできるのは、自分です。智慧のある人は、幸せになる道は「悪い言葉を使わない、悪い行為をしない、悪い心を捨てる、生活を整える」ところにあると知っています。そこで、そのような自分になるための努力をします。
 自分のするべきことをして、あとは真理に委ねる−−−信仰的に言うならば「あとは仏さまにお任せする」−−−という態度です。善因善果・悪因悪果の法則から見ても、適切なあり方であると言えます。

 

迷いの藪

 智慧の無い人は、幸せになる道を知りません。その一方で、ひたすら自分が愛しい、自分だけが愛しいと自分に執着します。
 自分に快さをもたらすものに触れると、そこに惹きつけられ、欲望を生みだします。欲望は肥大化して貪欲(とんよく)となります。そして、自己中心、自分本位の行為に走ります。
 貪欲は、自分に快さをもたらすものを求めてやまない感情です。求めるものを手に入れても、満足することなく、さらに求め続け、際限がありません。
 貪欲と背中合わせに、瞋恚(しんに)があります。瞋恚は、自分に不快をもたらすものを遠ざけよう、排斥しよう、抹殺しようとはたらく感情です。破壊する感情と言っていいでしょう。

 仏教には、知識と智慧が説かれています。
 知識は学識とも言って、いわゆる知識力や論理力です。学習や経験を通して獲得するものです。
 智慧は人間の本質、人間関係の本質、人生の本質などを洞察し、本質に合った生き方をする力です。お釈迦さまの教えを修習すれば体得できます。
現代心理学における「知能(IQ=知能指数)」と「心の知能(EQ=心の知能指数)」は、仏教の知識と智慧に似たところがあります。

 智慧があれば、貪欲・瞋恚を押さえたり、方向付けたりできるのですが、智慧がないと貪欲・瞋恚のしたい放題になります。仏教では智慧がないことを愚痴と言います。
 貪欲・瞋恚・愚痴によって、心・言葉・行為が乱れ、迷いの藪に入り込んで、苦しみ悩みの生涯を送ることになります。

 お釈迦さまは、迷いの藪で苦しむ人々が、藪の外に出るための教えを説いてくださいました。「四つの聖諦」と「八支の聖道」です。
 この二つの教えを学び、理解し、実践すれば、迷いの藪の外に出ることができ、同時に智慧が育ちますから、幸せへの道を進むことができます

 逆に「他の人を幸せにしなさい」とはおっしゃっていません。実は、他の人を自分の努力で幸せにしてあげようと努めても、その人が幸せになるとは限らないのです。
 その人が幸せになるには、その人自身が幸せになるための努力をする必要があるのです。さきほどの「悪い言葉を使わない、悪い行為をしない、悪い心を捨てる、生活を整える」 という努力を、その人自身がしてくれなければ、こちらが何をしてあげても、その人は幸せにならないのです。
 その人が幸せになる努力をしているならば、こちらから応援することも出来ますし、手助けをすることもできます。
 しかし、本人にその気がないのでは、何をしてあげても、無駄骨に終わってしまいます。