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[経営コンサルタントとして学ぶお釈迦さまの教え]−八正道について   浪 宏友


四諦の教え

 お釈迦さまの代表的な教えに「四諦」があります。「苦諦・集諦・滅諦・道諦」です。「諦」は「明らかにする」という意味で、四つのことを明らかにするので「四諦」と言います。
 それぞれの意味を、簡単にご説明します。

 苦諦(くたい)=苦を明らかにする。
 いま、自分が苦しんでいる苦しみを明らかにします。

 集諦(じったい)=苦の原因を明らかにする。「集」とは「苦の原因」です。
 自分の苦しみを生み出した原因、それも自分の中にある原因を明らかにします。

 滅諦(めったい)=苦の原因を滅すれば、苦が滅することを明らかにする。
 自分の中にある苦しみの原因が無くなれば自分の苦しみが無くなることを明らかにします。
 苦しみの原因を無くしてしまえば、同じ苦しみが二度と生じることはありません。

 道諦(どうたい)=苦の原因を滅する道を明らかにする。
 自分の中にある苦しみの原因を滅するために、自分が行うべきことを明らかにします。
 ここで、自分が行うべきことは「八正道」であることが明らかになります。

 これをまとめれば、「自分が苦しんでいるのは、自分の中に苦しみの原因があるからである。自分の中の苦しみの原因を無くせば苦はなくなる。自分の中の苦しみの原因を無くするには、八正道を実践すればよい」となります。

スバッダ

 お釈迦さまが、ご入滅を前にして、沙羅双樹の間に横になっておられるところに、年老いた遊行者スバッダが尋ねてきました。アーナンダが、お釈迦さまは疲れていらっしゃると断るのですが、スバッダは、どうしても教えていただきたいと懇願します。これを聞きつけたお釈迦さまが、アーナンダに、スバッダを通すように言いました。
 スバッダがお釈迦さまに質問しますと、お釈迦さまはそれには答えず、スバッダのために、教えをお説きになりました。
 「スバッダよ、どのような教えでも八正道を説かない教えでは、どんなに修行しても、解脱して涅槃に入ることはできません。
 どのような教えでも、そこに八正道が説かれているならば、その教えを修行すれば、解脱して涅槃に入ることができます」
 解脱・涅槃と難しそうな言葉ですが、内容はそんなに難しいものではありません。
 解脱とは、苦しみから解放され、脱出するということで、苦しみがなくなるということです。
 涅槃とは、迷いの火を吹き消すという意味です。迷いがなくなって、二度と苦しまなくなるのです。
 八正道が説かれている教えを学び、理解し、実践すれば苦しみがなくなり、二度と苦しまなくなるというのです。
 「八正道」は、固有名詞ではありません。普通名詞です。「人間としての正しい行ない」を八つの方面から見た理論です。
 「誰が説く教えでも、その中で八正道(人間としての正しい行ない)が説かれているなら、その教えを修行すれば、苦しみがなくなり、二度と苦しまなくなる」というのは、仏教にだけ通用する特殊な理論ではありません。あらゆる人にあてはまる普遍的な理論です。
 お釈迦さまは、スバッダに、
 「私が説く教えは八正道を説いています。スバッダよ、私の説く教えを修行したらどうですか」と、おっしゃいました。
 スバッダは、喜んで、お釈迦さまのお弟子にしていただき、八正道を修行して、解脱し、涅槃に入ることができました。

八正道の実践

 お釈迦さまの教えは、八正道を説いていますから、誰であっても、これを学び、理解し、実践すれば、苦しみがなくなり、迷いがなくなって、二度と苦しまなくなるのです。
 お釈迦さまがご在世中の二千五百年以前だけでなく、その後もずっと、そして現代でも、これは変わりありません。
 苦しみを無くしたい、二度と苦しまなくなりたいと願うのであれば、八正道を説いている教えを捜して、学び、理解し、実践すればいいのです。

八正道の実践を広め永続させる

 ある日、お釈迦さまは、修行者たちを集めておしゃいました。
 「修行者のみなさん、私は法をさとって、皆さんに教えを説きました。皆さんは、私が説いた教えをよく理解し、実践し、修習して、世の人々に伝えてください」
 そして、お釈迦さまは、おっしゃいました。
 「それは、梵行を実践する人がいつまでも存在し続けるようにするためです」
 「梵行」とは「清らかな行い」ということで、「八正道」を指しています。
 お釈迦さまは、現在生きている人々にも、これから生まれてくる人々にも、八正道を実践させてあげたいと願っておられるのです。

   お釈迦さまが、人々に、八正道を実践させてあげたいと願うのは何故でしょうか。それは、先ほども申し上げました通り、八正道を実践すれば、苦しみが無くなるだけでなく、二度と苦しみが生じなくなるからです。
 しかし、そればかりではありません。
 自分らしく生きようと思って一生懸命に努力してきたのに、気が付けば、苦しみ悩みの坩堝(るつぼ)に落ち込んで、八方ふさがりになっていた。こういうことが起きるのは、周りが悪いからではなく、運が悪いからでもなく、八正道から外れた行動を行なってきたからです。
 自分の意思で、自分の能力を発揮して、人々の幸福のために行動することを「自己実現」と言います。これこそ、自分らしい生き方にちがいありません。
 自己実現は、自分の意思で。八正道を実践することによってなされます。ですから、自分らしく生きようと思ったら、自分の意思で、八正道を実践すればいいのです。
 お釈迦さまは、すべての人に、自己実現をさせてあげたい、その人らしく生きてもらいたいと願っておられるのです。

八正道

 八正道とは「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」であり、「人間としての正しい行ない」を八つの方面から見た理論です。

 八正道の各支の意味については、原始仏典に詳しく解説されています。私も、この解説を学び、自分なりに理解して実践し、その中で考察を続けてきました。ここでは、現時点における私の理解の概要を綴らせていただきます。

 「正見」とは、「正しく見る」ことですが、私は「ものごとをありのままに見て、ありのままに認識する」ことと理解しています。
 人は、認識をもとにして行動しますから、「ありのままに認識する」ことができれば、適切な行動をとることができます。

 「正思」とは、「正しく思い、正しく考える」ことです。「思」とは「精神的行為」です。「精神的行為を正しく行う」のが「正思」です。

 「正語」とは、「正しい言葉を使う」ことです。「語」とは「言語的行為」です。「言語的行為を正しく行う」のが「正語」です。

 「正業」とは、「正しい行ないをする」ことです。「業」とは「身体的行為」です。「身体的行為を正しく行う」のが「正業」です。

 「正命」とは、「生活・仕事・人生を正しくする」ことです。「命」とは「いのち」ですが、ここでは「生活のありかた」です。

 「正精進」とは、「正しい努力をする」ことです。どんな条件下でも「するべきことをして、してはならないことをしない」ことであり、それを弛みなく続けることです。

 「正念」とは、「正しいことを念じ続ける」ことですが、ここでは「常に自分を見つめて、自分のありかたが正しいかどうか、反省を深める」ことです。

 「正定」とは、「正しいことに専念する」ことですが、ここでは、「自分が正しくあるように、心を集中し、思いを深めていく」ことです。

 「正精進・正念・正定」は一体となって、「正思」を支えていると、私は考えています。

 以上が、八正道に対する現時点における私の理解の概要です。