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[経営コンサルタントとして学ぶお釈迦さまの教え]−たゆみなき努力   浪 宏友


善い行ない・悪い行ない

 仏教における「戒」について学んでいますと、さまざまな解釈がなされ、またさまざまな説明がなされています。どれを読んでも、納得できるところと、よく分からないところがあります。
 こうした解釈や説明を参考にしながら、お釈迦さまの「戒」に関する教えを学び直してみました。

 学ぶうちに、「戒」は、大きく分ければ、二つになるんだなと思うようになりました。それぞれを「止惡の戒」、「修善の戒」と呼ぶことにしました。

 仏教では、真理に合った行ないを「善い行ない」とし、真理から外れた行ないを「悪い行ない」とします。
 「善い行ない」をしますと、自分や自分の周囲に幸せがもたらされます。
 「悪い行ない」をしますと、自分にも、周囲にも、苦しみが生じます。
 悪い行ないはやめたほうがいいのです。善い行ないは続けたほうがいいのです。
 お釈迦さまは、そういうことを教えてくださったのだと思います。
 自分は、善い行ないができるようになったほうがいいのです。そのためには、善い行ないをするという資質を、自分の中に育てたほうがいいのです。
 善い行ないをする資質を、自分の中に育てる努力が「修善の戒」です。

 また、自分は、悪い行ないをしないほうがいいのです。もしも、自分に悪い行ないの癖がついていましたら、この癖を、取り除いたほうがいいのです。
 自分の中にある悪い行ないをする癖を取り除く努力が、「止惡の戒」です。

 「止惡の戒」も、「修善の戒」も、取り組んでみると、実に難しいのです。難しいからといってやらないわけにはいきません。「止惡の戒」をやらなければ、悪いことをする私がずっと続いてしまいます。「修善の戒」をやらなければ、善いことができない私が、ずっと続いてしまいます。
 悪いことをしない私になりたい、善いことができる私になりたい。そう思うのなら、「止惡の戒」を学び続け、「修善の戒」を学び続けるほかありません。

 「戒」という言葉には、「くりかえし、くりかえし、努力する」という意味があることを知りました。
 「止惡の戒」も「修善の戒」も、くりかえし、くりかえし努力して、成就することができるということだと思います。

 私が師と仰ぐ庭野日敬師の言葉があります。妙法蓮華経常不軽菩薩品の解説の中にある次の一節です。
 「正しいと思うひとつのことを」、「まごころをこめて」、「どのようなことが起こってもくじけずに根気よくやりとおす」(庭野日敬著『法華経の新しい解釈』佼成出版社、p.534)
 これだ、これだ、「止惡の戒」も、「修善の戒」も、この精神で取り組めばいいのだ。
 このように考えが進んで、「戒」とは「たゆみなき努力」なんだなと思ったわけです。

苦しみの原因

 お釈迦さまの教えのなかでも、もっとも重要な教えのひとつが、「四つの聖諦」です。
 四つの聖諦を学びますと、自分が苦しんでいるときは、自分の中にある苦しみの原因が発動しているときです。自分の中にある苦しみの原因とは、「するべきことをしていない」ことであり、「してはならないことをする」ことです。これらは、悪い行ないです。
 「するべきことをする」ことと、「してはならないことはしない」ことが、善い行ないです。
 四つの聖諦は、苦しみの原因となっている悪い行ないをやめれば、苦しみがなくなると言っています。

 自分に、「するべきことをしない癖」がついていると、無意識のうちに、するべきことをしないでいます。「するべきことをしないという苦しみの原因」を、無意識のうちに作ってしまうのです。

 自分に、「してはならないことをする癖」がついていると、無意識のうちに、してはならないことをしてしまいます。「してはならにことをするという苦しみの原因」を、いつのまにか作ってしまうのです。

 無意識のうちに行なったことだから、自分には覚えがありません。覚えが無くても、「するべきことをしなかった」という事実、「してはならないことをした」という事実は動かせません。
 覚えがないうちに、苦しみの原因をつくってしまっているというのは、考えてみれば、恐ろしいことではないでしょうか。

止惡の戒

 「するべきことをしない」のも、「してはならないことをする」のも、悪い行ないです。苦しみの原因となります。これは止めなければなりません。そのための努力が「止惡の戒」です。
 「止惡の戒」を行なうには、まず、自分をしっかりと観察します。阿含経では、八正道の正念に、そのやりかたが詳しく述べられています。
 意識して自分を見つめ続け、悪い行ないを行ないそうになったら、意識してこれを押さえます。
 自分の中に根を張ったような悪い癖は、簡単にはなくなりません。意識が緩んだすきをついて出てきます。ですから、意識に隙を作らないようにしなければなりません。八正道の正定の実践が望まれます。
 人間には、「しないことはしにくくなる」という性質があります。意識して、悪い行ないを押さえているうちに、悪い行ないが出にくくなります。これを繰り返せば、悪いことをすることがなくなっていきます。
 八正道の正念・正定と一体となった正精進が、自分を支えてくれます。

修善の戒

 「止惡の戒」は、自分が悪い行ないをしなくなるようにという努力です。
 悪い行ないを裏返すと、そこに善い行いがあります。これを見つけて、身につけようとする努力があります。これが「修善の戒」です。
 法華三部経の開経である『無量義経』を読みますと、
「十功徳品」に書かれた第一の功徳に、「諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ」というように、悪い行ないを裏返したところにある善い行いが、十七項目にわたって述べられています。
 「慳貪の者」とは、「物惜しみ(慳)が強く、人のものをむやみと欲しがる(貪)人」です。この「慳貪」を裏返すと「人に善くしてあげる行為(布施)」になります。「慳貪」をしていると、自分に苦しみが生じて仕合せになれませんが、「布施」を行なうと、縁ある人々に喜ばれて、自分も仕合せになります。
 「修善の戒」では、自分が悪い行ないをしがちなところを裏返して、そこに見いだされる善い行ないを、意識して行ないます。これによって、悪い行ないは、ますますしにくくなります。
 止惡の戒と修善の戒をセットで行なうことによって、悪い行ないをする癖がなくなり、善い行ないをする資質が育ちます。

「戒」の実践

 自分を観察して、自分の悪い行ないを自覚し、これをなくすために「止惡の戒」を、意識して実践します。さらに、悪い行ないを裏返したところにある善い行ないを発見し、これを身につけるために、意識して「修善の戒」を実践します。
 すなわち、本来の「戒」は、意識して、自発的に、主体的に実践するものです。
 指導者から指摘されたり、教えられたりしたとしても、言われたから行なうという他律的な実践にしてはいけません。指導者の言葉をかみしめて、その内容を自分のものとした上で、意識して、自発的、主体的に実践するべきでありましょう。
 言われたから仕方がないなどと、しぶしぶ行なっているのでは、さしたる成果は得られないでしょう。
 「戒」は、自発的、主体的に行なう「たゆみなき努力」であることを忘れてはならないと思います。

与えられる「戒」

   仏教には、五戒とか、十善戒とか、仏さまから与えられる戒があります。これはどう考えればいいのでしょうか。
 たとえば、五戒は、 殺生をしない、A与えられぬものを取らない、B正当でない性行為をしない、Cひとを欺くことばを吐かない、D酒を飲まないの五つの戒めです。
 このような戒が与えられる理由として、私は、二つのことを考えています。
 ひとつは、人倫として、普遍的な、最低限の戒めを説かれたということです。
 なお、ここに「酒を飲まない」が含まれている理由は、お酒を飲むと、自分を失って、他の四つの戒めを破るからと説かれています。これは「酒を飲まない」というよりも「酒に飲まれない」という戒めであるともいえます。

 もうひとつは、自分で戒を立てられない人のために戒めを説かれたということです。
 自分を見つめ、自分にある悪い行ないをする癖を自覚して戒の実践に入るのは、ある程度修行が進んだ人でないとできないように思われます。
 まだ、そこまで達していない人のために、お釈迦さまは、基本的な戒めを説いてくださったのではないかと、私は考えています。
 これらの戒めを、意識して実践するうちに、自分をみつめ、自分にある悪い行ないの癖を自覚できるようになれば、自発的、主体的な戒の実践に入ることができるでありましょう。