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[経営コンサルタントとして学ぶお釈迦さまの教え]−シンガーラへの教え3  浪 宏友


十六の罪悪から離れる

 お釈迦さまは、シンガーラに、十四の罪悪についてお説きになりました。
  • 「四つの行為の汚れ」
  • 「四つのしかたで悪い行為をなす」
  • 「財を散ずる六つの門戸」
合わせて十四の罪悪です。

 四つの行為の汚れとは、
     
  • いきものを殺すこと
  • 与えられないものを取ること
  • 欲望に関する邪な行ない
  • 虚言
です。これらについては、『詩人散歩 令和七年夏号』でご説明しました。

 悪い行為をする四つのしかたとは、
  • 貪欲によって
  • 怒りによって
  • 迷いによって
  • 恐怖によって
です。これらについては、『詩人散歩 令和七年秋号』でご説明しました。

財を散ずる六つの門戸

 財を散ずる六つの門戸とは、
  • 酒類など怠惰の原因に熱中する
  • 時ならぬのに街路を遊歩することに熱中する
  • 祭礼舞踊など見世物の集会に熱中する
  • 賭博という遊惰の原因に熱中する
  • 悪友に熱中する
  • 怠惰にふける
です。
 いずれにも、「熱中する、ふける」とあります。仕事や生活を忘れ、あるいはほったらかしにして、のめりこむことを言っているのでありましょう。
 経文では、それはどういう行為か、それによっていかなる惡影響があるかなどが述べられています。

 酒類にのめり込んで、財を失くすとあります。酒に溺れて、親が築いた財産を無くしてしまった話など珍しくもありません。そればかりでなく、人との間に争いが生じ、自分は病気に罹り、世間的には悪い評判が立ち、知性を失って、不道徳なことを平気で行なうようになるなどとあります。
 これでは、財を失うどころか、人間性を失い、はたまた人生を失うことになるかもしれません。

 時ならぬのに街路を遊歩するとは、仕事をするべき時に遊びまわっているとか、就寝すべきときに街で騒いでいるとか、乱れた生活を指しているのでありましょう。こんな生活を繰り返していれば、財など、いくらあっても足りなくなるでしょう。
 家族は不安と危険の中で暮すこととなり、自分はいつ危害にあっても不思議ではない状態にあり、世間の評判はがた落ちとなるに違いありません。自分や家族に何かあっても、だれも助けてくれないかもしれません。

 祭礼舞踊などに熱中するとありますが、今日はあっちのコンサート、明日はこっちのイベント、明後日は向うの祭礼などと、仕事そっちのけで騒ぎまわっていたら、財を失うのは目に見えています。借金をしてまで遊びまわっていたら、家族にも、周辺の人びとにも迷惑を掛け、おしまいには、誰にも相手にされなくなってしまいます。

 賭博で落ちぶれていく人もまた後を絶ちません。勝てばほくそえんで、また賭ける。負ければ、口惜しがってまた賭ける。こうしている間に持ち金は無くなり、借金が嵩み、争いが始まり、家族・親類からも友人からも見離されていきます。
 最近、しばしば報道されるのは、投資ばなしに乗っかって、多額の財産をだまし取られる事例ですが、これなどは、本質的には賭博とかわることがないように思われます。

 こうした財を失う道に入るきっかけを作るのが悪友です。こちらが財を持っている間は親友のような顔をしますが、財が無くなるとたちまち立ち去り、ときには敵対することもあります。こんな友人を持つと、気が付いたときには、破滅への道を歩かされていたということもあるのです。

 すっかり遊び癖がついた人が仕事に就いても、まじめに働くことができません。なんのかんのと言い訳をして、仕事をしない。仕事場に入っても、文句ばかり言って働かない。その上、もらった給料はたちまち無駄遣いしてしまう。
 これでは、まともな生活ができるわけがありません。

 お釈迦さまは、若いシンガーラに、このような財を失う道に入ってはいけないと、くれぐれもお示しになったのでした。

快楽を求める

 財を散逸する六つの門戸を見ますと、共通点があるように思われます。
 いずれも、快楽を求めてやまないという共通点があります。この快楽は、今だけ、ここだけ、自分だけの快楽です。
 快楽を得ることが幸せということなのでしょうか。快楽を味わっているときだけが幸福であるということであれば、ほんのいっときの幸せでしかないでしょう。
 長続きする幸福は、快楽を求めるところにはありません。人間の本質である仏性が求める幸福が、長続きする幸福です。ここでは詳しく申し上げられませんが、自分の人間的成長と、人びととの円満な人間関係がその中心にあることは間違いないと思います。

仕事そっちのけ

 財を散逸する六つの門戸には、いずれも、仕事そっちのけという共通点があるように思われます。財を得るための仕事をそっちのけにして、財を使い続けたら、やがて無一物になってしまいます。
 お釈迦さまが、一人の老人について、あの人は、若い頃に財を蓄えることをしなかったので、年老いてから困窮することになってしまったと説いているお経がありました。  この老人は、財を散逸する六つの行ないのようなことを、行なってきたのかもしれません。そのとき、人とのつながりも失ってしまったとすれば、救いの手が差し伸べられることもないのではないでしょうか。
 現代においても、都会の片隅で人知れず亡くなる、いわゆる孤独死の老人の話などを耳にすると、働き盛りの頃はどんな生きかたをしてきたのだろうか、家族とはどんな仲だったのだろうかなどと考えてしまいます。

財は人間らしく生きるためのもの

 お釈迦さまは、財をとても大切に考えておられたようです。人間として生きていくためには、財が欠かせないからでありましょう。
 人間らしい人間として生きていくための財であると考えれば、その求め方も人間らしい求め方であり、その使い方も人間らしい使い方であって欲しいものだと思います。
 お釈迦さまは、人びとに、人間らしい生き方を勧め、人間らしい生きかたの中に真の幸福があることを、人びとに体験させてあげたいと願いつつ、教えを説いてくださっているのだと、私は受け取っています。